知床知布泊村開村25周年

知床毘沙門堂開堂10年
 月日はめぐり知床にもよい季節がめぐってきて、こうしてまた皆様にお目にかかれますことは、毎年楽しみなことです。皆様知床毘沙門堂、知床聖徳太子殿、知床観音堂にようお参りくださいました。
 私たちが長い時間をかけてこつこつとつくってきた知布泊村は、オホーツク海側の知床半島で最も奥地とされた駅逓がかつて設けられていたところです。ここには馬を休ませ人が宿泊できる施設があり、集落があって、小学校がありました。その小学校の跡地が、私たちが知布泊村と呼んでいる山荘が建てられているところです。そこにかつてあった神社を復活しようというのが、そもそもの発端でした。
 東京下谷の法昌寺の福島春樹住職に相談をいたしましたところ、下谷七福神の法昌寺毘沙門天を分祀するから、毘沙門堂を建立したらどうかとの御指導をいただきました。地元知床の人たちが中心になって建設したのが、北方の守護神毘沙門天を安置する知床毘沙門堂です。今からちょうど10年前のことになります。
 法昌寺では毘沙門講を毎月3日にやっていて、時間が許すかぎり私も参加してまいりました。そこで知床毘沙門堂の開堂式を1995年7月3日にすることにし、東京の法昌寺から多くの檀信徒を迎えて、地元の人たちとともにそれは賑やかに一夏の集いがもたれました。その時、当時の法隆寺管長の高田良信猊下の御参加をいただきました。
 高田管長の御発願により、知床聖徳太子殿を建立することになり、杉の丸太のカッティングをログビルダーに頼み、私たちが担いで組み上げました。聖徳太子の平和思想を、北の大地で実現しようとの願いが込められています。奈良斑鳩の法隆寺より聖徳太子御壮年像をいただき、御本尊とさせていただきました。
 その後知床毘沙門祭は毎年盛大になって続けられました。五年目が過ぎた時、私は勧進代表として祭りを縮小しようと提案しました。地元の人たちに大変な負担をかけているとの思いがあったからです。なにしろ、野外パーティーには盛大な料理がならぶのですから。私の提案は、みんな楽しみにしているのだからと、一蹴されたものです。
 知床毘沙門堂にはますます多くの人が集まるようになり、法隆寺の新管長になられた大野玄妙猊下の御発願により、知床観音堂が建立されました。法華経観世音菩薩普門品第二十五(観音経)には、「毘沙門の姿によって救うべきものには、毘沙門の姿によって教えを説く」と、観音の功徳が説かれています。また法隆寺には上宮化身観世音菩薩、すなわち観音は聖徳太子の御姿に化身してこの世に出現し、人々をお救いになったとの信仰が伝えられています。つまり、毘沙門天と聖徳太子と観音ほ同じ存在だということです。
 咲く花を追って、水の流れをたどって、ここまできました。古い聖人の言葉ですが、知床三豊の前に立つと、いつもこの言葉が思い浮かぴます。
 この知床にお心を寄せてくださるすべての人が、清らかなお気持ちで毎日を過ごせますように。

2004年6月27日

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知床毘沙門堂例祭
2001年7月1日(日)

 知床に毘沙門堂を建てたのは、阪神淡路大震災のあった年で、今年で七年目になる。七年目は、別に筋目というわけでもないのだが、知床毘沙門祭は、今年も盛大に行われた。年々盛んになり、五百人ほどの人が集まった。法隆寺、金閣寺、銀閣寺、清水寺の管長や執事長がこられるのは、いつものことであるが、今年は興福寺の管長さんもいらっしゃった。また法隆寺の各関係で日本経済新聞社の社長も遊びにきて、ここに書く余裕もないほど珍客があふれた。法要は、厳粛におこなわれ、その後が野外パーティーだ。
牛の脚を一本焼くのもいつものことである。牛の脚は一本で七十キロあり、肉をとれば相当の分量だ。食べきれずにたいてい余ってしまう。ホッケの開き、ホタテ、アスパラとどんな御馳走がでたか考え、私はいろんな人に話しかけられてろくに食べる時間もなく、全体を掌握できていないことに今さらながら気がついた。そのかわり、冷えた生ビールだけは思う存分に飲んだ。ビールは、人と話しながらでも飲めるからである。


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